ライティングに挑戦中の貴方へ伝えたい。言葉と文字の関係性について

 

毎日誰かと交わす「言葉」の量は膨大だ。

 

これを仮に数に変換すると、一日およそ1万6千語という。

 

それらの「言葉」は、発声者の「喜び」、「悲しみ」、「怒り」、「恥じらい」など様々な感情をのせて誰かの元に届く。

 

ゆえに、感情を具現化する「言葉」は、人間にとって最も大切なものの一つである。

 

しかしながら、「言葉」には唯一欠けている部分がある。

 

それは「言葉」には形がないということだ。

 

 

たとえば愛する幼い我が子にむけて発した母の「言葉」に形があるとするなら、届くその「言葉」は丸みを帯び、ふわふわとして柔らかく、肌触りが心地よい真っ白なものだろう。

 

そんな幸せな余韻が手の中で確実に残る「言葉」であれば、いつまでも手元に残しておきたいものだ。

 

だが、やはり手ですくおうとしても、まるで指の間からスルスルと通り抜けていくように、儚くもすぐに形のない「言葉」は消えてなくなってしまう。

 

そして決して遠くには伝わらない。

 

逆に愛する人から自分にむけて発せられた「言葉」はいつも以上に鼓膜を揺さぶり、脳を刺激する。

 

だが、悲しくもやはりそれもすぐに消えてなくなり、脳には次の新しい「言葉」が上書きされていく。

 

たとえ記憶に残ったとしても一字一句覚えているはずはなく、月日が経てばニュアンス程度しか憶えていないのだ。

 

つまり、「言葉」は、空間的にも時間的にも極度に制限されたものだと言える。(ゆえに儚く貴重だとも言える)

 

しかしながら、人間はその「言葉」の不足を補う素晴らしいものを創り出した。

 

「文字」である。

 

「文字」は「言葉」と違って形となり、時空を超えて半永久的にこの世の中に残る。

 

 

『あかたまは、おさへひかれど、しろたまの、きみかよそひし、たふくとありけり』

(訳)赤玉は付けている紐の緒まできれいに光っておりますが、貴方はまるで白玉(真珠)のようにもっと高貴に輝いておられます。

古事記 上の巻末
太安万侶 和銅五年(712年)

 

上記文は、日本最古の歴史書「古事記」に記された一節である。

 

「豊玉姫」が産殿から海神のところへ帰っていくときに、夫である「天つ神」への歌を妹の「玉依姫」に預けた場面で詠まれた歌だ。

 

つまり、「日本最古のラブレター」

 

最愛の夫を想い妻の綴った「文字」は空間的にも時間的にも無限大といえるほど力強いものを作り出したのだ。

 

 

これは、歴史上誰もが知る政治家に目を向けてもそうだと言える。

 

たとえば、「人民の、人民による、人民のための政治」で有名な第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの「ゲティスバーグ演説」や「ドイツ国民よ、我々に四年の歳月を与えよ」で有名なナチス・ドイツの指導者(総統)アドルフ・ヒトラーの「首相就任演説」のように、「言葉」は、時に人々を熱狂させ、世の中を変えてしまうパワーがある。

 

「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役に立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」

アドルフ・ヒトラー

 

これはヒトラーの有名な言葉である。

 

なるほど「演説だけで総統になった」と言われている彼の言葉なら、「文字」よりも「言葉」が偉大であるという論説は、なんだか説得力がある。

 

ただ、ヒトラーの「言葉」ですらもやはり一瞬であり、そもそも曖昧で形のない政治思想や愛国精神において、こんなにも人々が熱狂したのは、のちに彼の「言葉」を「文字」に変えることで、当時の世に広く知らしめることができたおかげということも我々は見落としてはいけない。

 

そして、何よりも「ゲティスバーグ演説」しかり「首相就任演説」しかり、当時の様子をこんなにも我々が生々しく今も共有できているのは、一瞬の言葉を永遠の文字に変えたほかないだろう。

 

つまり、彼らの「言葉」の価値を「文字」がいっそう高めたのである。

 

 

そして、それは現代においてもやはり同じである。

 

たとえば戦後の日本の中でもとりわけ成熟したと言われる「娯楽」もそうだ。

 

「娯楽」に代表される映画、音楽、漫才などの演者達が舞台で表現するパフォーマンス(すべて言葉)にこんなにも大勢の人が酔いしれるのは、素晴らしい脚本、歌詞、ネタ(すべて文字)があってこそではないだろうか。

 

つまり、歴史的に「政治」や「娯楽」からひも解いても、性質上「言葉」と「文字」は常に互いに補い合う関係性なのである。

 

それは、「言葉」と「文字」の恩恵を人が受け続ける限り、この関係性は変わることはないだろう。

 

ますます価値観も多様化していく現代においても、そして価値観がどうなるか分からない未来においてまでも決して変わらないのだ。

 

 

その一方で「言葉」と「文字」は互いに補完し合う関係性は、その性質が対であることでも証明できる。

 

たとえば、

 

 

人が人を一瞬で虜にする「言葉」が「動」ならば、人から人へ長年受け継がれる「文字」は「静」

 

 

想い乗せ弁をふるう「言葉」が「現在」ならば、想い託し綴る「文字」は「未来」

 

 

声(喜怒哀楽)の強弱で伝わり方が違う「言葉」が「無形」ならば、字体(ひらがな・漢字)の剛柔で伝わり方が違う「文字」は「有形」

 

 

このように互いに補完しながら対の性質を併せ持つ2つの関係性はやはり美しい。

 

 

ここで、こんなにも普遍的であり、奥が深い「言葉」と「文字」だが、この2つを巧みに操る素晴らしい技術がある。

 

それが「コピーライティング」である。

 

「コピーライティング」は、一言でいうと「人間心理を深く理解して、自分の言葉を文字で伝え、読者の行動を起こさせること」だ。

 

ゆえに、誰かが欲している無形の「言葉」を有形の「文字」に変えることができる「コピーライティング」は、伝える相手が人間である限り、この先も決してニーズが消えてなくなることはないだろう。

 

したがって、日本書紀のラブレターや過去の偉人の演説のように、「コピーライティング」によって生み出された「言葉文字」は時空を超え、次の時代の読み手に影響していくはずだ。

 

そして、読み手の中にはその「言葉文字」に一瞬で虜になり、行動を起こすものもいるだろう。

 

つまり、「言葉文字」によって人に行動を起こさせる「コピーライティング」は無限の可能性を秘めているということだ。(実際、コピーライティング技術で信じられないくらい稼いでいる人はたくさんいる)

 

なぜなら、文字は決して劣化することがないため、資産性価値が異常に高く、一度書けば半永久的に行動を起こさせることができるからである。

 

つまり、「コピーライティング」を習得できれば、一生使えるスキルとなるのだ。

 

 

しかしながら、志半ばで諦める人も多いのも事実である。

 

たった独りで「コピーライティング」に取り組んでいる時は、得体の知れない孤独を感じ、ゆっくりと足首から這い上がってくる不安に心臓が押し潰されそうになるからだ。

 

たった独りで「コピーライティング」に取り組むことは、まるで眼前に靄がかかり、大きな海原の中を手探り状態で進むようなものだ。

 

この先にまだ見えぬ出口が本当にあるのか・・・、そして自分がどこに向かっているのか・・・それさえ分からない。

 

 

最初は、もがき苦しみながらも、それでも前へ進もうと必死で足をばたつかせ、両手を前へ前へかき分ける。

 

だが、次第に進む速度も減少していく・・・。

 

まるで波打ち際に作られた砂城のように身体も心も少しずつ押し寄せる波にかすめ取られていく・・・。

 

そして、ついに崩れる。

 

 

「言葉文字」を打ち込むことを止めるのだ。

 

 

だが、時に孤独や不安に苛まれながら、時に心身ともに擦り減り疲弊しながらも、まだ見ぬ誰かのために言葉を文字に宿すこの「コピーライティング」を習得せず、志半ばで諦めることは正解であろうか?

 

 

答えはもちろん否である。

 

 

この「コピーライティング」の「無限の可能性」や「言葉文字」の「資産性価値」から鑑みても、焦ることもなく、一生をかけて取り組めば良いことは容易に理解できるはずである。

 

時に不格好に這いつくばりながらも、「少しずつ」「少しずつ」前に進んでいけばいいのだ。

 

そしてこのように、「言葉」と「文字」は奥が深く、かつ複雑な関係性であるがためにごくごく簡単に習得できるスキルでもないことを認識すればいい。

 

「だからコピーライティングは習得できれば最強なのだ」と。

 

 

 

ここで必要なのは「覚悟」だけである。

 

 

自分の追い求める夢や経済的な自由のために、コピーライティングに取り組み努力している自分自身を信じ抜くべきである。

 

 

時に追い込まれ挫けそうになっても、絶対に屈してはならない。

 

 

 

大丈夫。

 

 

 

きっといつか成功し、成果が現れ始めれば、少しずつ心の余裕も出てくるだろう。

 

 

 

逆境に挫けるな。

 

 

 

いつかあの日思い描いていた日常が現実のものとなったとき、あの時行動を起こした自分を誇らしく思うだろう。

 

 

 

間違っても、もっともらしい他者の言葉を信じてはならない。

 

 

間違っても、冷たく静かな他者の視線を気にしてはならない。

 

 

断言するが、これを徹底しなければ、様々な障壁が今後も次々の目の前に立ちはだかり、やがて乗り越えられないほどのそびえたつ高い壁になるだろう。

 

 

確かに世の中の現実的な主義主張を考えれば、今回の話は、異端であるかもしれない。

 

 

ただ、

 

 

そのせいで、どれだけの才能を闇に葬っては言葉のように儚く消えていったのか。

 

 

 

そのせいで、どれだけの夢や経済的自由の実現を芽吹く直前で潰していったのか。

 

 

自分は声高に貴方に言いたい。

 

 

コピーライティングに挑戦している貴方は間違いなく素晴らしいです。

 

 

だから、歩み始めたその一歩を決して止めることなく、迷わず次の一歩を力強く前に出して欲しいと思います。

 

 

そうすれば、貴方がいつの日か望んだ理想の未来は必ず実現すると思います。

 

 

だからそのまま突き進んでいってください。

 

 

苦しくなったら少し立ち止まればいいです。

 

 

辛い時は思いっきり泣けばいいです。

 

 

でも、決して屈してはだめです。諦めたらそこで終わりです。

 

 

それでも、前へ進み続ければ、

 

 

そうすれば、いつか光り輝くゴールが見えてくるはずです。

 

 

だから、自分を信じて頑張ってください。

 

 

ゴールは思ったよりも意外にすぐそこかもしれません・・・

 

 

 

 

 

 

誰かが成功をおさめることが出来たということは、他の人にも同じ事ができるという証明である。

That some achieve great success, is proof to all that others can achieve it as well.

エイブラハム・リンカーン

 

 

ケント

 

 

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